所詮、買い替えれば済むPCではある。現状たいした金額を出さずとも手に入るものだ。
しかしその盗まれたPCは、音楽を作り出す楽器そのものだった。その個人にとっての心象の全記録と回顧録だ。
金で手に入るものでは決して無い。
卑劣な悪意によって踏みにじられた失われた記憶は戻る事はない。
誰が為に音楽を創出するのか。
何の為に人は音を耳に入れるのか。
音、まとまりの無い、事象と感性の狭間で起きる無限の振動。
絵を書くのも、映像を作り出すのも、音楽を作るのも、すべては個人の我が儘と自己顕示と自己確認の現れなのか。
人と喜びを分かち合いたい。聴いた事の無い、見た事の無いものへの執着は興奮と緊張と期待を産み、脳内では潜在的な未来を視る。
しかし、それだけで制作意欲が湧く訳では無い。創造は模倣から始まるとはよくある文句だが、嫌いな文言だ。
意図的に真似た代物は真にオリジナルを超えることは無いだろうし、そこで満足できる想像家は単なるその時代の象徴物でしかない。時を超えない。
輸入文化、我々猿真似ニッポン人。押しつけや鵜呑みから生まれた模倣芸術はやはり薄らしょぼい。
ちょっと待てよ、なんか、しっくり来てない。としか言いようが無い感覚に日々出会う。
消えた日本。世界的な需要はそもそも元から無いのだろう。しかし、諦めている訳では無い。
戦後生まれた我々は、あからさまな統制/統率を生まれながらに受容せざるを得なかったし、このままでは今後も天然の国民性は封じられたままだと思う。
失われた日本人の英知や文化。そんな自分も洋服を着ているし、外来語を略して会話していたりする。
この、なにからなにまで作り上げられた気がしてしまう箱庭島国、まあ、詮索せず、気づかないほうが懸命なのか。
音楽と宗教はかなり似た精神作用を持っている気がする。
思考につきまとう強力な方向性は眼前に起きる事象すべてを認知し、強靭な抗体を精神に生成出来得る。
対価とは、、、宗教も音楽も学問も、人間の取る自発的な行動すべては対価を求めての行為なのだろうか。
無為自然な行動、群れること、連係することと孤独との共存。
滅裂な単語しか日々目に映らなくなってしまった現代は既に盲人だらけであり、精神の破綻であり、
その狂言戯れ言を胸に行動していたとしても、人にも自分にも、罰せられることも少ないのだろう。
まさに、無頓着、個人主義に因る個性の消失、失意の消失。
現実、音楽を好きになっていなかったらどういう生活を送っていたのだろうと思う。
牙の抜かれた飼い犬。
右も左もなくただ精神を真ん中に置き前進したいがための自己との闘争。下手をすると単なる自己からの逃走。現実は無味無臭な付け焼き刃、脆弱な精神の天秤。
名目がなければ動けなくなったこの決められた体は真に隷属であり、訳もなく生き抜くチカラは生来持ち合わせては居ない。
心のよりどころは容易く崩れ、変容し、退廃する。退廃しきった虚無、無感動の果てに、それでも自己の存在を知るために音楽を聴き、また作る。
目には見えない、精神そのものへの力。
音楽は当然個人的な楽しみだ。
音楽性に賛同した者たちの身勝手な鑑賞会だ。
だが、真意での趣味共有はあり得なく、そこで愛を唱えるのも、笑顔を作り出すのも、怒りを表すのも本来無責任な行動で、自由をはき違えた妄想だ。
そうだとしても、馬鹿だからこそ、知るたるを知りたい。救いは何処にでも存在しているが、かといって容易く見つかる訳でも無い。
消費社会、乗っ取り文化、暴力の連続、欲望の格子、
奪う者と奪われる者。盛者必衰、無理繰り更新し塗り固める精神の薄弱性。
恐ろしく矮小なるヒトの虚構世界はそろそろ終焉を迎えるのだろうか。
因果応報。
共通の価値感とは、もの凄く曖昧で全く信頼の置けない、冷凍された意識の塊。
リスクも無しに前進しようとする似非行動家、弱い部分につけ込むことしか能が無い傲慢な厚顔無恥。
せいぜい大事なその立ち位置を死守して、憧れの、完全なる模倣を達成すればいい。




























